『孝元天皇陵は孝元天皇の御陵にあらず!?!?』
夕立が上がってムンムンのポカフレールから、ワンダフルイブニング!!
毎日夕立降りますね~。
昨日の夕立は、ハイパーゲリラ豪雨だったとか…⁉
なんかかっこいいけど(笑)、被害がでませんように!!
さて、見出しについてですが…
昨日来られたお客様とお話をしていて、
「この上の池って古墳なんですよね⁇」
と聞かれたので、
「ハイ、でも架空の天皇のお墓らしいですよ!」
と、精一杯の浅い知識で説明すると、
「へぇ~!でも、なんで、架空の天皇⁇
何のために⁇」
と、聞かれ、そんなこと考えたこともなかったので、もちろんタジタジ…笑
というワケで調べました!!
理解するのにかなり時間がかかりましたが、
謎は解けました!!
たぶん…!?笑
自分ではまとめきれないので、
bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/turugi_ike.htm
こちらのページから抜粋します
↓↓↓
<<<石川池に木陰を移す孝元天皇陵の正式な名称は、剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)という。こんもりと茂った樹木に覆われ、いかにも御陵といった雰囲気を醸し出している。だが、記紀で第8代の天皇とされる孝元天皇も、戦後の歴史では実在の人物とは見なされていない。陵墓の被葬者は全く不明なのだ。さらに墳丘自体も実際は 4~5世紀頃の3基の古墳と自然丘で一陵としたものらしい。しかし土地の人々は昔からこの古墳を孝元天皇の陵と信じて敬ってきた。
架空の天皇であるからやむを得ないことだが、『古事記』も『日本書紀』も孝元天皇に 関する事績をほとんど記していない。記紀の記述を整理すると、以下のようになる。
孝元天皇は、孝霊天皇を父に、細比売命(ほそひめのみこと、磯城県主の祖である大目の娘)を母として生まれた。父帝の後を継いで天皇に即位すると、宮を軽の境原宮(さかいはらのみや)に遷して天下を治めた(軽の境原宮は丸山古墳から国道169号線をへだてて西南に位置し、現在近鉄岡駅の北側の丘の 上にある牟佐坐(むさにいます)神社がその宮跡とされている)。在位57年で崩じると、剣池嶋上陵に葬られた。
孝元天皇は、穂積臣らの祖先である内色許男命(うつしこをのみこと)の妹・内色許売(うつしこめ)命を皇后に立てた。皇后は、二男一女を生んだ。第一の子が大彦(おおびこ)命、第二が後の開化天皇、第三が倭迹迹姫(やまとととひめ)命という。第一子の 大彦命は後の崇神天皇の時代に将軍として北陸道に派遣された人物である。皇后の他に、二人の妃を娶った。伊香色謎(いかがしこめ)命は彦太忍信命(ひこふつおしのみこと) を生み、別の妃の埴安媛(はにやすひめ)は武埴安彦命を生んだ。 彦太忍信命は、景行から仁徳までの六代の天皇に仕え300歳まで生きたという伝説を持つ武内宿禰(たけちのすくね)の祖父である。武埴安彦命後に崇神天皇のとき反乱をおこした ことで知られている。
さらに、『古事記』では武内宿禰の9人の子供(男7人、女2人)の名をあげ、武内宿禰の後裔とされる氏族を 列挙している。その中には、波多臣、巨勢臣、蘇我臣、平群臣、木臣など臣(おみ)姓の地方豪族の名がある。これらの地方豪族は後世に共同の祖として武内宿禰を構想し、 その系譜の上流を皇族に結びつけて箔をつけているようだ。見方によっては、孝元天皇はこうした系譜をもっともらしく仕上げるために作り上げられた天皇だったかもしれない。>>>
ということらしいです。
わかりましたか~⁇笑
つまり、ひいじいちゃんを天皇ってことにして見栄をはった、ってことですかね!?
っていうか…300歳まで生きた武内宿禰さんって!?そっちの方がすごいやん!!
と、大人げなくツッコんでしまいました。笑
ん~歴史は奥が深くておもしろいですね!!
京都のような華やかさはありませんが、明日香は古い時代で謎が多いのも魅力なのかもしれませんね。
明日香の歴史が好きな方はマニアックな歴史ファンという印象があります。
ちなみに自分は、なんといっても幕末が好きです。
おまけ
池に映った夕焼け空です♫